2002年5月21日のバイブルスタディー
(マルコの福音書14章53-65節)


そこで大祭司が立ち上がり、真中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。(60-61節)
イエス様は、イスカリオテのユダによって、祭司長、律法学者、長老たちに売り渡され、真夜中にゲツセマネにおられたとき、彼らから差し向けられた群衆によって捕らえられ、大祭司のところに連れて行かれた。そしてそこで、ただちに裁判にかけられた。なんと、真夜中に裁判が行われたのだ。

この裁判は、真夜中に行われたというだけでも驚嘆に値するが、それだけではない。初めから本末転倒した裁判だった。裁判というのは、容疑者の是非を裁くために行うものだが、この裁判は、“イエスを死刑にするために”行われた。そんな裁判を行うこと自体、律法に背く罪悪だ。

それに対する被告人イエス様の態度も不思議なものだった。証人たちがイエス様に対して次々と偽証をしているのに、何も弁明をされず、黙っておられた。自分に不利な証言に対して、イエス様は何も答えられなかったのだ。

裁判で黙秘ならぬ沈黙を決め込むというくだりは、私たちの目には、次のように映るかも知れない。それは、ある新興宗教の教祖の裁判記録に見られるように、裁判長や検察の質問にだんまを決め込んで裁判を遅延させたかと思うと、意味不明の言葉を並べ立てて、それによって裁判を撹乱させる、あの鼻持ちならない態度だ。これは、誰の目にも明らかなように、単に裁判を乱して時間を稼ぐための低俗な戦略に過ぎない。私たちは、イエス様の態度も、そんなふうに見ているふしがある。もしかしたら、言葉の端々に聖書の語句を用いていた、その新興宗教の教祖も、聖書を読んで、イエス様の態度を同じように解釈し、自分もその解釈したとおりに実行しているのかも知れない。もしそうだとしたら、大変な読み間違いだ。

イエス様が答えないのは、ふて腐れて答えないのではない。しらを切っているのでもないし、相手を無視しているのでもない。法廷において不必要な弁明をされなかったのだ。イエス様は、必要なことだけを言われた。

実は、イエス様は、このまま黙っておられたら、無罪になったのだ。偽証がどれも一致しなかったためだ。律法によると、3人以上の証言が一致しなければ、その証言は無効になる。ところが、「イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかった」という。一致しなければ、その証言は無効になってしまう。形ばかりは律法に則って行われたが、そもそもが不法な裁判だ。イエス様を讒言する証言が一致しないことで、祭司長たちの苛立ちは、徐々に高まって行ったことだろう。

だからといって、イエス様は、偽証がどれも一致しないことを見越して沈黙を決め込んでいたのではない。そうではなくて、不必要な陳述をされなかったのだ。その必要・不必要の基準は、自分を守るためではなかった。イエス様の基準は、あくまでも御心だった。偽りの証言によっては処罰されなかった。それは、イエス様がユダヤの王であるという、真実の証しによって処刑されるためだった。イエス様は御心に忠実に従われたのだ。

どの証言も一致しないので、大祭司はついに立ち上がって真中に出て来て言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリスト(=メシア)ですか。」その質問に対して、「わたしは、それです」と、イエス様はすかさず答えられた。大祭司の質問は、“Yes”と答えれば、自動的に、神の冒涜になる質問だった。イエス様はそれに対し、堂々と“Yes”と答えられたのだ。大祭司はそれを聞くと、自分の衣を引き裂いて「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです」と人々に言った。自分の衣を引き裂くとき、普通それは大きな悲しみや不幸を表したが、ここでは、どう見ても、大祭司はイエス様をとうとう罠にはめたと大喜びしているようにしか見えない。

私はこの部分を読んで、歴史のアイロニーを感じずにはいられなかった。イザヤ書によると、メシアは、私たちの罪と咎の身替わりとなって殺される。

まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
この預言は、必ず成就されずにはいられないものだったのだ。メシアが自分をメシアだと言ったとき、それは冒涜罪となって、刺し通され、砕かれる。しかしそれは、とりもなおさず“メシアは受難する”という預言の成就なのだった。なんという皮肉なことだろうか。大祭司のこの態度を見るとき、イエス様のかつて言われた「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています(マタイ23:29-31)」という言葉がいきいきと蘇って来る。彼らは預言者を殺した者たちの子孫として、ついに、メシアを殺そうとしているのだ。

そのような預言の成就する渦中で、イエス様は沈黙され、語られた。このことは、私たちに重要な信仰のあり方を示していると思う。イエス様は、自分のプライドで沈黙したり喋ったりなさらなかった。御心に、徹頭徹尾、従われた。

一方、私たちは、プライドに左右されてしまうことが多い。先ほどの新興宗教の教祖などは、プライドの化け物に取りつかれた標本だ。彼の弁護団は、最近になって、犯行は弟子たちの暴走で、教祖はそれに反対したのだと主張し始めた。今頃そんなことを言い始めること自体が、その主張が嘘であることを示しているではないか。弟子たちが次々に死刑宣告を申し渡される中、驚いたことに、その弟子たちを裏切って、自分だけが死を免れようと足掻く。イエス様とは似ても似つかない醜悪さだ。彼は、服装や鬚・髪型を、西洋の絵に出てくるキリストの姿に似せているから、余計に内面の醜さが際立つ。

彼の犯した罪は断罪できても、彼に罪を犯させた内面の醜さを、断罪することはできない。私たちは、その場その場で自分の損得に心がくもり、言うべきでないときに言い、言うべきときに黙してしまうことがよくある。そして、正義を口にしながら、結局は自分の利害得失を語っている。あの新興宗教の教祖のように、自分を弁護するために、醜態をさらけ出す。だから、私たちが彼を断罪するのは、私たちが自分自身を断罪するのと同じことだ。私たちも彼と同じく醜悪なのだ。

イエス様は、自分自身を弁護されなかった。イエス様は、みこころだけを証しされた。私にそれができるだろうか。こうなることを極力避けるために、私は、普段から自分のプライドを否定し、自分においては何が究極的に大事なものなのかを追求し、それを意識して生活する必要がある。それができれば、自分の言ってしまったこと、言いそびれたことで、あとになって自己嫌悪に陥ることも、多少は減るだろう。