2002年5月14日のバイブルスタディー
(マルコの福音書14章43-52節)


イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」それで彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけした。すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。(44-46節)
イエス様がゲッセマネで祈り終えられたころ、イスカリオテのユダが、剣や棒を手にした群衆とともにあらわれた。彼らは祭司長・律法学者、長老たちから差し向けられた者だった。ユダは彼らと前もってイエス様を捕らえる手筈を打ち合わせしていた。

ユダは「私が口づけするのが、その人だ」と言った。注釈書によると、当時は弟子が師の頬に口づけをするのが敬愛の意味を込めた挨拶だったらしい。それを踏まえて、ユダの言ったことを日本式に換えると、「私が恭しく挨拶をしたら、その相手がホシだ」という意味になるだろう。

なぜユダは、師に口づけをするという恭しい態度を、こともあろうに、師を裏切って敵に売り渡すという呪わしい行為に用いたのだろうか。こういうことをする心理は、にわかには理解しがたい。

しかし、この心理は私たち自身を表しているのかも知れない。表向きにはキリストを愛し、神を敬っているように見せかけて、陰では神に反する行為を行っている。口では神を賛美しながら、大小様々の悪事に手を染めている。または、神の名で人を裁き、他の宗教を裁き、追放し、罰する。これらは、実は神に反逆する行為だ。ここでユダが自分の行為の意味を自覚していたかどうかは問題ではない。なぜなら、私たちが自分自身の行為を自覚しているかどうかも問題ではないからだ。

そしてユダは、イエス様の前にあらわれ、つかつかとやって来るや、「先生」と言って、熱烈に口づけした(katejilhsen)。訳された聖書では、44節の「口づけ」と45節の「口づけ」は同じ単語だが、原語では、44節では jilew を用い、45節では katajilew を用いている。kata- はここでは強意の働きがある。これは、ユダの何ともじっとりとした愛情表現を見せている。バークレーはこれを、福音伝の中で最もおぞましく身の毛のよだつこと(the grimmest and most terrible thing in all the gospel story)だと言っている。

ユダのこのときの心情もまた、理解しにくいものだ。おそらくは、後ろめたさがあるとかえって親切になるという心理と通じるものが、ここにあったのではないだろうか。ある人が、あるときから急に慇懃になったり親切になったりしたときは要注意と言われている。ユダの場に合わない熱烈な口づけは、自分の犯す罪の重さを露呈しているのかも知れない。

さて、これらの一連のできごとに対し、イエス様は無抵抗だった。祭司長や律法学者、長老たちが、剣や棒を手にした群衆たちを送ったのは、イエス様を宗教指導者の仮面をかぶった革命分子のように考えていたからだろう。弟子たちもまた、イエス様を革命家と見ていたのではないだろうか。だからこそ、イエス様が捕らえられたとき、弟子たちは、全く抵抗しないイエス様を見て志気を失い、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったのではないだろうか。

イエス様は、徹底して宗教指導者だった。革命家ではなかった。だからこそ、何の抵抗もなさらなかったのだ。

この態度は、その直前までの“血の汗を流した”祈りとは打って変わって、堂々としている。この変化はいったいどこから来るものなのだろうか。実はこれこそが、祈りによって得られた安静なのだ。祈りについては、次の言葉がある。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ 4:6-7)
御心を行うには、神とともにいなければならない。それは、みことばとともに歩む生活だ。神とともにいるためには、祈りが必要だ。祈りは神との意思疎通の場だ。祈りなしではどうやって神とともに歩むことができるだろうか。祈らずに行動するなら、自分が主導で自分の義を歩んでしまいやすい。神とともに歩むなら、私たちはすでに勝利しているのだ。

御言葉と格闘し、神と格闘して砕かれ、神に服従することで得られる平安と勇気。それには祈りが必要だ。イエス様は、祈ることで、身に降り掛かる苦難に前もって勝利された。恐れに勇気が打ち勝った。私も、祈りによって苦難に勝利できるようになりたい。