2002年5月7日のバイブルスタディー
(マルコの福音書14章32-42節)


イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。……」(33-34節)
イエス様の苦悩の言葉を軽く聞き流してはならない。イエス様は十字架を前にして、激しく苦悩された。これは、弟子への教訓のためのジェスチャーではない。弟子たちに見せるために、もだえて見せたり悲しいと言われたのではない。イエス様は虚偽を憎まれる方だ。本当に苦しかったからこそ、そのように言われたのだ。

私たちは、イエス様の味わわれた恐怖を黙想してみる必要がある。イエス様は三人の弟子と一緒にオリーブ園を進みながら、精神的に大きな衝撃を受けたように驚きの声を上げ、悲しみに打ちのめされてもだえ始めた。そのときの心情は、想像もつかない。

十字架刑というのは、ローマ帝国最大の残虐刑の一つだった。単なる死刑とはわけが違う。数時間後には死へと至るその苦痛は、想像を絶するものだったはずだ。しかも、ローマの兵士たちから虐待され、嘲弄される。弟子たちには逃げられ、支持者はなく、完全に孤立してしまう。けれども、それ以上に恐ろしかったのは、神との断絶だった。神との断絶は、霊的な死を意味する。これは本来私たちが被らなければならなかった最大の懲罰だった。おそらく十字架以上の苦しみがそこにあるに違いない。そこに渦巻く、癒されない痛み、渇き、苦悩、絶望への恐怖は、イエス様を圧倒した。

これは私たちには意外な感じがするかもしれない。信仰者は苦難の中でも賛美があり、信仰によって苦難を忘れることができると思いがちだからだ。そして、苦しみや悲しみなどの感情を表に出すのは、信仰者の理想ではないと考えてしまいやすい。そして、苦難を前にして祈る祈りも、嬉々としてみこころに従いますと祈らないと、敬虔な祈りではないと思ってしまいやすい。イエス様だったら、そのような最大の苦難を前にしても、平静を保っていてしかるべきではないか。

しかし、イエス様はその反対だった。弟子たちの前で、自分の苦しみをさらけだされた。そして、父なる神への祈りも、「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」というものだった。“みこころはいやだ”と言われたのだ。これは、私たちの多くが思っている信仰のあるべき姿と違うので、理解に苦しむ人は多いと思う。

イエス様は、私たちの信仰の師だ。ということは、この態度には、かならず私たちが学ぶべきところが隠されているはずだ。だから、私たちの追求する信仰のあるべき姿と方向を異にするということは、私たちが漠然と心に抱いている信仰のあるべき姿の方が間違っていることを意味する。すべてを“みこころ”だと言い放ってみこころに追いやってしまうのは、私たちのあるべき生き方とは、ひょっとしたら、かなり違うものなのではないだろうか。

イエス様は、ご自分の心の中に立つ波風を、無理に押さえることをなさらなかった。自分の苦しみ、悲しみ、怒り、憎しみから、信仰の名で目をそらすようなことはなさらなかった。すべてを直視され、全ての心の動きを認められた。そしてそれを、祈りでも告白し、人にも隠さなかった。

しかし、自分の感情がみこころに勝つことはなかった。イエス様は、“みこころはいやだ”と言われながらも、みこころを拒絶されなかった。「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と言われた。イエス様の中でみこころは、力強くイエス様を支配していた。イエス様は少しもみこころから離れることがなかった。この、原則通りに生きる力強さと、弱さを見せる人間臭さとが、人々を魅了してやまない点なのだろう。

私たちは、信仰を持つ前は、社会の中で仮面をかぶり、自分を飾って生きている。そして多くは、自分の能力や地位や持ち物が自分自身だと錯覚している。信仰に入ると今度は、みことばならぬ信仰で、自分に仮面をかぶせてしまう。これはどちらも自分を縛っているのだ。しかしイエス様は、仮面をかぶらなかった。自分から目をそらすために信仰に集中することもなかった。

一方、私たちは、仮面の背後で感情が私たちを支配していることが多い。そして、感情が社会的な大義名分を引っ張って来て、人を欺き、自分も欺いて、身の回りのすべてを振り回してしまう。自分の感情は正当化され、感情に従って悪を行う。あるいは、正しいことは何かを知りながら、自分の感情に押し流されて、ついつい悪を行ってしまう。しかしイエス様は、自分の感情に振り回されることもなかった。イエス様は、感情を主にされなかった。イエス様はまったくみこころそのものを生きられた。私たちは自分の感情を主にしているので、正しく生きているようで、見境のない行動に走るのだ。しかしイエス様の主はみこころだった。そのため、イエス様の行動は少しも乱れることがなかった。

私たちは、本音と建て前の世界に生きている。そこでは本音が主であり、建て前は表向きの方針に過ぎない。それは効力のないリップサービス、虚飾の仮面だ。本音と建て前の世界では、みこころすらも、仮面になってしまう。しかし、私たちは、本音と建て前の関係を断ち切るべきだ。みこころと本音とがぶつかりあう世界に生きるべきだ。みこころを仮面にすることなく、自分の感情の根源である自我を、みこころにぶつけ、みこころによって砕かれることで、みことばが自分に現れる生き方へと進むべきだ。みこころは、私たちの仮面ではなく、骨となるべきものだ。

私たちの心の中では、たいていは自我が主になっている。しかし、その自我を明け渡し、神のみこころを主にするとき、信仰のパラダイムはがらりと転換する。自分は自分として相変わらず存在するが、みこころは、その自分を超えて、自分の中で柱となる。たしかに私たちは、イエス様のようにみことばそのものを生きることはできないに違いない。相変わらず、弱く、不完全で、仮面を捨てきれず、愚かな真似を行っている。しかし、そこには、本当の自由がある。