2002年4月30日のバイブルスタディー
(マルコの福音書14章22-31節)


それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これは私の契約の血です。多くの人のために流されるものです。」(22-24節)
十字架につけられる前夜、エルサレムのとある建物の屋根裏部屋で、イエス様は弟子たちと一緒に、過越の食事を取っておられた。食事中、イエス様はパンと葡萄酒で、ささやかな儀式を行われた。

そのささやかな儀式は、現在、世界の教会で、聖餐式という名称で執り行われている。プロテスタント教会では聖餐式を、たいていは月に1度、第1日曜日の礼拝のなかで行っている。これは、キリスト教という宗教の儀式だが、いわゆる宗教儀式とは違う。私の目には、それは儀式よりは、一種の記念行事に見える。イエス様はなぜ、最後の過越の食事で聖餐を行い、弟子たちに命じられのか。

私は聖餐式のたびに、独り黙って死に向かわれたイエス様の勇気と愛を思い出し、視界がかすむ。周囲からも、啜り泣く声が聞こえる。小さなオブラートのようなパンを手の中で割るときの、パチンという音に、キリストの受けた苦痛を思い出し、耳栓くらいの小さな杯に入った甘い葡萄の絞り汁を飲み干すたびに、キリストの流された血を思い出す。私にとっての聖餐は、そういうものだ。

しかし、イエス様が私たちに聖餐を行うように命じられたのは、それだけのためではないだろう。イエス様はかつて「わたしはいのちのパンです」と言われた。そして、その言葉とともに、次の言葉をいわれた。

まことに、まことにあなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。私の肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。(ヨハネの福音書 6章53-57節)
これはもちろん、文字どおりの意味ではないし、聖餐式のパンを食べたらキリストの肉を食べたことになったり、聖餐式の葡萄酒を飲んだらキリストの血を飲んだことになって永遠のいのちが持てるというのでもない。パンを食べて葡萄酒を飲むことは、神からいのちをいただく直接の行動ではない。ここではイエス様は、聖餐式のことを言っておられるのではなく、信仰のことを言っておられるのだ。しかしこの言葉は、聖餐式と関係がないとは思われない。

信仰は、理論ではなく体験だ。イエス様は、聖餐式を通して、身をもってみことばを体験させようとなさったのだ。キリストの裂かれた肉としてのパンを、口に入れて食べることは、キリストの苦難を自分の中に迎え入れることだ。キリストが私の身替わりとなって十字架で苦しんで死なれたことを、体全体で味わうために、私たちは聖餐のパンを食べる。そして、イエス様が流された血潮によって私たちの罪は浄められるという契約を、私たちが受け入れたことを、体全体で味わうために、葡萄の絞り汁を飲む。

キリストを受け入れることは、飲食物を摂取するように、魂の中に迎え入れることだ。口から体に入ってしまったものを、私たちは自由にコントロールすることができない。それが養分であれ毒素であれ、自然の摂理に従って体に吸収されるのだ。私たちの体は食物のなすがままになる。キリストを信じ受け入れることは、いのちのパンを口から体の中に迎え入れることだ。そのパンは、養分となって、私の体の構成要素になる。それが私たちの体に命をもたらす。そのことを、聖餐は身をもって体験させる。

また、聖餐は、キリストが身近におられることを思い出させてくれる。どんなに身近な人でも、まさか私の体の中に入ってしまうことはない。ところが、キリストはみことばとなって私たちの心の中にとどまってくださる。ということは、キリストは、誰よりも身近な存在なのだ。キリストは家族よりも身近にいてくださる。

このことは、聖餐を儀式と捉えておしまいにしてはいけないことを示していると思う。私たちは、聖餐式でキリストの体を自分の体の中へ受け入れるように、キリストとそのみことばとその苦難とを、全身で受け入れるべきなのだ。私たちがキリストのうちにとどまり、キリストも私たちのうちにとどまっていてくださることを再確認するために、キリストの体としてパンを食べ、キリストの血として葡萄酒を飲む。だから重要なのは、聖餐式自体よりも、聖餐式で記憶を新たにした、キリストとともに歩む人生の方だ。

人間はややもすると観念に流れてしまいやすい。イエス様はそれに歯止めをかけるために、聖餐式を私たちに勧めておられるのだと思う。聖餐は私たちの信仰の本質ではない。しかし、聖餐をおろそかにするならば、私たちの生活は、肝心な、キリストとともに歩む人生からも離れてしまい、観念的な信仰に陥りがちになるだろう。聖餐式を命じられたのは、心憎いほど行き届いた配慮によるものだった。

だから、日々、キリストのみことばと罪の赦しとを、聖餐のパンと葡萄酒のように食べて飲み、全身で受け入れ、自分の血肉にしていきたい。とくに私のように抽象的な観念に流れてしまい勝ちな人間は、なおさらこの聖餐的生き方が必要になると思う。