2002年4月23日のバイブルスタディー
(マルコの福音書14章10-21節)


そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」(18節)
祭司長と律法学者たちが、イエス様をだまして捕らえ、殺す方法を考えるのに懸命だった頃、イエス様の一行は、密かにエルサレムに戻り、ある人の家の二階の広間で、最後の晩餐をとっていた。

そのとき言われたのが、上の言葉だ。これは弟子たちにとってショッキングな言葉だった。弟子たちは悲しくなって(hrxanto lupeisJai)、「まさか私ではないでしょう(mhti egw;)」とかわるがわるイエス様に言いだした。一番信頼しあっていると思っていた12人のうちの一人が裏切り者になると言われたのだ。ひょっとしてそれは自分のことか。弟子たちはどきっとした。

実際には、イスカリオテのユダがイエス様を裏切る行動に出るのだが、この“裏切る”という言葉の原語は、“paradidwmi(譲渡する)”だ。ここでは“敵の手に渡す”という意味になる。私たちが日本語で“裏切る”と言っているのと、ちょっと違う。日本語で“裏切った”といえば、ペテロも裏切ったことになるが、聖書ではペテロは“つまずいた”のだ。27節でイエス様は「あなたがたはみな、つまずきます(panteV skandalisJhsesJe)」と言われた。ここでは、“裏切る”の意味は、日本語での意味でなく、原語“paradidwmi”の訳語として考えよう。

ユダはイエス様を裏切った。その動機については、様々な人たちが様々な詮索をしているが、結局のところは不明だ。だから、裏切った動機はともかくとして、ユダの行為が結果的にイエス様を裏切り、十字架の死へと追いやった事実を直視すべきだ。

私たちは、誰もが自分は正しい人間でありたいと思う。イスカリオテのユダだって、そう思っていたことだろう。しかし、おそらくユダは、イエス様に従順ではなかったに違いない。自分勝手にことを考えていた。もともと、会計を任されていたユダだから、頭は人一倍よかっただろう。その頭のよさが裏目に出た。

彼は、イエス様の忠告や教えとは裏腹に、自分の中に何かひらめくものがあった。それは彼にとって、すばらしいアイデアだった。ユダの眼は輝いた。ユダの確信は固かった。

しかし、それは、そのとき彼にサタンが入ったのだった。そのひらめきが、罪なきイエス様を十字架につけるという大罪を犯す結果になってしまった。サタンさえ光の御使いに変装するという。彼にとって輝かしかったそのひらめきは、彼をしてサタンの手下にしてしまった。そして、悲しいことに、彼の最後は、そのしわざにふさわしいものとなった。

イエス様は、「あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります」と言って、ユダに対し暗に警告され、悔い改めを促された。しかし、ユダは、自分のすることがどういう結果になるのか分からなかったので、まさか自分の行為が裏切ることだとは考えもしなかった。イエス様は、いくつかの方法で、裏切るのはユダだということを示されたが、ユダはそれでも悟らなかった。ユダは何かを大きく勘違いしていたのだ。他の弟子たちも、まさかユダが裏切るとは考えていなかった。

キリストを十字架にかけるという最大の悪に、ユダは手を貸した。この世には、そのように神に敵対するもので満ちている。それらは、神を信じ、神に従おうとしている者までも、たぶらかして、サタンの手下に騙し入れてしまう。そして、神に従う人々を苦しめたり、惑わしたり、つまずかせたりする。

しかし、神はどのような悪も、善に変えてくださる。神の子を十字架で殺すという最大の悪を、神は、人類の救いという最大の善に変えてしまわれた。それによって、サタンは致命的な痛手を負った。

私たちは、気が付かないうちに、神につくか、サタンにつくかの選択を迫られていることがある。日々みことばを黙想するとき、神に敵対した人たちを、人ごととは思わず、自分自身への戒めと見るべきだ。彼らに現れた特質が、自分にはないだろうか。自分は本当に神の側に付いているだろうか。みことばは私に警告していないだろうか。

私がイスカリオテのユダにならないためにも、いつも謙虚にみことばに耳を傾け、みことばに従うべきだ。「聖書にはこう書いてあるけど、でも自分はそうは思わない」という考えは、おそらく多くは聖書の読み間違いによるか、霊的素養の欠如によるものだと思う。それは、サタンの付け入る隙を与えることになる。子供のように素直にみことばに従うことが、サタンの惑わしから私たちを守るために不可欠な態度だ。