2002年4月16日のバイブルスタディー
(マルコの福音書14章1-9節)


まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこでも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。(9節)
イエス様が十字架にかけられる前々日、ベタニヤのらい病人シモンの家で食事をしておられたときの話だ。

ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエス様の頭に注いだ。それに対して何人かの者が憤慨してその女をきびしく責めた。それに対してイエス様は「そのままにしておきなさい(Ajete authn)」と言われ、この女の行いが善いことだというわけを説明し、そして最後に上の言葉で締めくくられた。

女がイエス様に注いだ香油は、約300グラムほどだったと思われる。これは、少し大きめのマグカップ1杯の量だ。そんなにたくさんの油を、イエス様の頭に一息に注いだわけだ。私はこの様子を想像してみた。

食卓に肘をついてもたれていられたイエス様のところへ、その女が香油のつぼを大事そうに持って近付いたかと思うと、それを割り、みんなが見ている前で、いきなりイエス様の頭に注ぎ始めた。その高価な香油──労働者のおそらく1年分の収入に当たる分量の香油──は、イエス様の頭から顔やひげを伝って流れ落ち、服に垂れ、かなりの量が床にぼたぼたと落ちた。

周りにいた人たちは、一瞬のできごとに、呆気に取られるばかりだったが、すぐにそれは、よくもまあ勿体ないことをしてくれたと憤慨する気持ちに変わった。もし私がユダヤ人でその場に居合わせたとしても、彼らと同じ気持ちになったに違いない。しかも、あまりに突拍子もないもてなし方に、軽蔑の気持ちも起こったはずだ。そして、イエス様もきっと腹を立てられたはずだと勝手に察し、彼女を厳しく責める人たちに加わったことと思う。

ところが、驚いたことに、イエス様はそれを制して、「そのままにしておきなさい」と言われた。そして「なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです(ti auth kopouV parecete; kalon ergon hrgasato en emoi.)」と諭された。おそらくは、ナルド油がべっとりと顔を伝って流れるのを拭いもせずに。

「まあ、いいじゃないか」と言ったのではなく、「りっぱなこと(kalon ergon)」をしたとほめたのだ。「りっぱなこと」というその言葉に、そこに居合わせた人たちは、一瞬呆気に取られたに違いない。「りっぱなこと」というのは、文字どおり訳せば“美しい行い”ということになる。いくら高価な香油とはいえ、顔も服も油だらけになった状態で、イエス様はこの言葉を言われたのだ。もし私がそこに居合わせたとしても、この言葉をイエス様が言われた瞬間、その真意をつかみかねて目を白黒させていたこととだろう。

イエス様は、そのわけを説明された。

貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。(7-8節)
この女にそのような意図があったかどうかは不明だ。しかし、イエス様は、その女の行いに、埋葬の意味を付与された。そして、最後に「世界中のどこでも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となる」とまで言われた。女のどうしようもないもてなし方、かえって迷惑なもてなし方を、イエス様は、なんと、賞賛された。おそらくそこに居合わせた人たちは、その心意気にジーンときたのではないだろうか。

ところで、その女のもてなしは、あまりにも不器用だったが、しかしそれは、真心をささげたものだった。それは、全身全霊からのものだった。イエス様は、ナルドの香油をよろこばれたのではない。人の真心をよろこばれたのだ。神は数量と物と形を見られず、比率と人と心を見られる。その性質は、ここでもイエス様を通して示されている。女の行いは、霊とまことによるイエス様へのもてなしだった。

私たちは、ともすれば、形にこだわってしまいやすい。神の前ですら体面を繕おうとする。しかし、神は、形のことは全く気にされず、私たちがこの女のように、全身全霊から愛する態度を見せたとき、よろこばれる。決して、失礼だ、迷惑だなどとは思われない。むしろ、心のない、形ばかりの祈り、形ばかりの礼拝を、神は嫌われる。

私たちは、矮小で、けがれていて、みすぼらしい存在だ。しかし、それにかまわず心から感謝と賛美をささげるなら、神はよろこばれる。イエス様は、それを示してくださった。