2002年1月15日のバイブルスタディー
(マルコの福音書10章23-31節 )

■ 真に裕福な人


  1. イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
  2. 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
  3. 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
  4. 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
  5. イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
  6. ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」
  7. イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
  8. その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。
  9. しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」

この段落は、新改訳聖書には「イエスに従う者の富と報い」というタイトルが付けてある。佐味先生は、「チャムデン プジャガ デラ(=真に裕福な者となろう)」と名付けたいと言われた。この箇所が私たちに教えているのは、腐ったり無くなったりしてしまう富ではなく、消えてなくなることのない永遠の富だからだ。

この段落は、前の段落からの続きで、イエス様が多くの財産を持った人に、持ち物をみな売り払い貧しい人たちに与えなければ神の国に入るには足りないと言われ、その人が悲しみながら立ち去ったあとの話だ。

イエス様は弟子たちをぐるりと見回しながら、裕福な者が神の国に入ることは何と難しいことよと感嘆された。弟子たちを見回したのは、その言葉に彼らがどう反応するのかを見られたのだろう。

案の定、弟子たちはびっくりした。寝耳に水のようなことだったからだ。三股先生の説明によれば、旧約聖書では、神の祝福は現世での富によっても現されるとのことだ。だから、その多くの財産を持った人は神様に祝福された人だと弟子たちは思っていた。ところがイエス様は、それを全く逆に、そういう人が神の国へ行くのは難しいことだなあ!と感嘆して見せたのだ。

弟子たちがびっくりしているのをご覧になって、イエス様は続けた。「子たちよ、神の国に入ることは、何と難しいことか。」そして、「金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が簡単だ」と言われた。ラクダは当時パレスチナではいちばん大きな動物だったそうだ。そして針の穴は、いちばん小さな通り道――糸の通り道――だ。互いに相容れない極と極を言っているわけだ。それよりも難しいというわけだ。

こういう一連のイエス様の言葉を受けて、ドイツの哲学者ニーチェは、キリスト教は“ルサンティマン(ressentiment)”の宗教だと言ったそうだ。憎しみの宗教と言ったらいいのだろうか。この単語はもともとフランス語なのだが、ニーチェは一つのキリスト教を形容する術語としてこの単語を用いたということだ。弱者中心で、強者に対しての憎しみが現れているというのだ。果たしてそうだろうか。

それはともかくとして、弟子たちはイエス様のその言葉に大変動揺し当惑した。弟子たちの考えで神に祝福されているはずの人が神の国に入るのが、不可能なことよりもさらに不可能だというのだ。弟子たちは「それでは、だれが救われることができるのだろうか」と、顔を見合わせながら言った。

イエス様は、弟子たちをじっと見つめて言われた。「それは人間にとっては不可能だ。(para anJrwpoiV adunaton...)」この言葉は、すっかり動揺した弟子たちの心をノックアウトする言葉だったかも知れない。

ところがイエス様は続けられた。「しかし、神にとってはそうではない。なぜなら、神にとっては全てのことが可能だからだ。(...all' ou para Jew, panta gar dunata para tw Jew.)」

そう、私たちは自分の力で神の国へ行くことは不可能なのだ。それは、どんなに泳ぎの達者な人でも大平洋を泳いで横断することができないように、どんなに正しい人でも、その正しさで神の国へ行くにはあまりにも正しさが不足しているのだ。

しかし、神はそんな人でも神の国へ神の能力で連れて行ってくださる。それはどうやってか。イエス・キリストの十字架による罪の贖いによってだということを、イエス様はここで暗示された。当時弟子たちは、そのことにとうてい気付かなかった。後にイエス様が十字架から復活され、昇天され、弟子たちが聖霊を受けたとき、この謎めいた言葉の意味を悟ったのだ。

ところで、ペテロは自分が理解できない話は耳に入らないようだ。イエス様のこの謎めいた言葉に他の弟子たちは、一体それが何の話か分らないまま、強く印象付けられていたことだろう。しかしペテロは、このイエス様の言葉を無視して、自分のことをしゃべり始める。

「ほら、先生! あの人と違って、私たちは全てを放棄しました。そしてあなたに従っています。」

この言葉がいかに生意気かは、多くの人がしみじみと感じることだろう。しかし、それをいちばん身に滲みて恥ずかしく感じていたのは、ペテロだったはずだ。イエス様が天に昇られてのち教会のトップだったのはペテロだ。教会で書かれたものに対し、意見をいうことができたはずだ。そのペテロについて、最も多くの失敗談が記されている。しかも、どれもが大変恥ずかしい失敗談だ。

私はこれを読むとき、かえってペテロの深い謙遜さに心を打たれる。福音が述べ伝えられるところではどこでも、ペテロの失敗談が語られるのだ。それを許した、あるいは積極的に勧めたペテロという人の、人間のスケールの大きさ。ペテロが「私たちは全てを放棄しました」とイエス様に言ったとき、本当は全てを放棄していなかった。自我という大きな砦にしがみついていた。しかし、この失敗談を聖書に記させた時のペテロは、最後の砦である自我をも放棄して、本当に全てを放棄できていたのだ。

ペテロの言葉を聞いて、イエス様は弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます……」これは、「あなたたちに本当に言っちゃうよ」という意味ではなくて、「今から言うことは本当のことだよ」という意味だ。この言葉は、非常に重要な意味を持つ預言または霊的原則について言われるときにイエス様が前置きされる言葉だ。この「まことに」は、“amhn”(アーメン)だ。必ずそうなるということだ。そしてイエス様は続ける。

「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」

実は日本語の語順の制限から、「わたしのために……」で文章が始まっているが、これを日本語がぎこちなくなるのを覚悟で、ギリシャ語原典の語順に近くしてみよう。

29 真実を君たちに言う:一人もいないのだ、捨てた者は、家を、あるいは兄弟たちを、あるいは姉妹たちを、あるいは母を、あるいは父を、あるいは子供たちを、あるいは田畑を、私のゆえに、そして福音のゆえに; 30 もし受け取らないなら、百倍を、今この時期に、家々と、兄弟たちと、姉妹たちと、母たちと、子供たちと、田畑とを、迫害といっしょに;そして、来る時代には、永遠の命を。

何とひどい日本語よ! でも、意味は何とか通じるだろう。語順に注目しよう。これは、ペテロが自分たちが全てを捨てたと断言したことに揺さぶりをかける言葉だ。「ペテロ:捨てました」――「イエス:捨てた者は一人もいない」。こう言っているかに聞こえる。

しかし、心憎いことに、30節に入ると、「もし百倍受け取らないなら」という言葉で逆転させる。これは、「百倍受け取るであろう者以外は」とも取れる。つまり、百倍受け取るであろう者は、捨てたと言っているわけだ。これはひいては、捨てた者は百倍受け取るという意味だ。

そしてそれはつまり、「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません」ということになるのだ。捨てた人はいないかのように言い初めて、実は捨てることの祝福を説く。心憎い話法だ。

そして、「しかし多くの先頭を行く者がびりになるだろうし、びりの者たちは先頭になるだろう」ということを言われる。これは、この世で高い地位にいたとしても、低い地位にいたとしても、それは神の国では関係ないと言っておられるのだ。この世でトップを行く者の中で、神の国ではびりになる人が多くいて、その反対も多くいると言うことだ。これは、この世でも神の国でもトップ、この世でも神の国でもびりという人たちも多くいることを――強調はしていないにせよ――暗示していることばだ。

つまり、ここでは私たちの霊的な功績が問題になるわけで、富の大小を問題にしているわけではない。イエス様は、もともと富の大小を問題にしておられない。弟子の中には、裕福な人もいた。これは、金持ちを目の敵にしていたわけではないことを示している。だから、キリスト教がルサンティマンの宗教だというニーチェの主張は当たっているとは言えない。イエス様は世の富を否定しておられない。それにしがみつき、それに頼り、その奴隷となる霊的盲目を否定しておられるのだ。

私たちの本当の富は、神の国を得ることと、神の国で先の者となることだ。イエス様は、聖書を通して、そのことをいつも私たちに語ってくださっている。